チャリ旅日記

旅のことや日常のことを気ままに綴るよ

最近、考えていること

 


どうもリョウスケです

 

 

 

人間は分別することが好きだ。

分別することで物事を深く理解しようとする。

 


得体の知れない事象と遭遇した時、

そいつに名前を付けたり、

そいつが何者かに属するのかを考え

最も近いものに分類したがる

 


〇〇属〇〇科〇〇といった具合に。

 


それは学識上の話だが、

日常的なものであっても人は分別しがちだ。

クサいところで言うと、

この胸の締め付けられる感情はなんだろうと考え

その事象が起こるタイミングから

それを恋と判断する。

ああそうか、これが恋なのかと

分別することで納得し、安心することもある。

 


でも私が最近思うのは、

果たして分別することに意味なんてあるのかーー

ということ。

 


この世の中は、本当は分別できるもの

ばかりではない。

 


矛盾した割り切れない物事を

人は否定する傾向がある。

でも本当は、

感情の浮き沈みの中では矛盾なんて当たり前だと感じる。

常に合理的で理屈の通った感情を

持ち続けられるほど

人間という生物は完璧ではないのだ。

 


世の中はグラデーションでできている。

必ずしも右か左で分けられないし、

黒か白で分けられない。

男と女で分けられないし、

好きか嫌いかで分けられるものでもない。

 


差別が横行する世界

差別なんてなくなればいいと皆言うのに

どうして差別は無くならないのか。

そもそもどうして差別が生まれるかって、

生まれ持った環境や、

自然と植え付けられたイメージ、

それらは簡単に拭い去ることは難しく、

洗脳に近いところがある。

 


分別しがちな人間たちは、

分別することで本質を見失い

狭い価値観に縛られ、

理解できない物事を無意識に排除しようとしている

 


その結果、差別が生まれるのではないかーー

と最近考えるのだ。

 


いろんな人の話を聞いて、本を読んで、

知識として身につけることで、

つまり、より細かく分別することによって

偏見や差別はいっとき霧散したように感じるかも知れない。

それでもさらに細かい事象に遭遇したら

途端に理解が及ばず、

また排斥してしまうのである。

 


「人を一人理解する」

それがいかに難しいことだろう。

家族、恋人、友人

自分のいま隣にいる人のことを

人はどれだけ理解できているというのか。

 


理解しようと努力することは必要だ。

無知や無関心や無意識な発言が人をより傷つける

多面的に理解しようとすることも

必要なことだが、

本質的に相手のことを理解することはできない。

 


解決方があるとするなら一つしかない。

 


ーー寛容であろうとすることだ。

分別なんてやめて、

すべての物事をありのままに受け入れる

受容する。

世界から差別や争いをなくすには

それだけでいいとさえ考える。

 


自分の価値観や環境を否定してまで

相手のことを理解しようとする必要はない。

 


簡単なことだ。

より難しく考えようとするからいけないのだ

 


人類よ、寛容であれ!

 


私が言いたいのは、

つまりその程度のことである。

 


目玉焼きに醤油をかける人もいれば

ソースをかける人もいる

塩をかける人もいれば

生クリームをかける人もいるかも知れない。

何をかけたっていい。

大事なことは、

自分が醤油をかけるからって、

人が信じるものを否定しないことだ。

 


やったことないけど

そんなものを目玉焼きにかける人がいるんだな、

今度試してみようかな、

と、その程度で良いのだと思う。

 


多様性を受容できる世界になれば良いのに。

そしたら世界は平和になるのだ。

 


そう、そして、それがいかに難しいかも

人間を30年やっていれば

何となくわかるのだ。

だから努力しようと考えている

寛容に物事を捉える努力を

相手のことを自分の物差しに当て嵌めて

否定しない努力を

 


これが現在、

私なりの浅はかな等身大の考えである。