チャリ旅日記

旅のことや日常のことを気ままに綴るよ

ゴミの日とおなじ感じで

 


どうもリョウスケです

 

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もうね、なんだか知らないうちに歳を重ねたらしくてね。気づくとあっという間に△□歳ですってわたし。ほんとに不思議だよ。何が不思議ってこんなにも無感情に歳って重ねていいものかってこと。

誕生日目前に、そういや明日ゴミの日だなってくらいの感じで、もう少しで誕生日だなって一瞬だけ思っても、そのすぐ後には思ったことさえ忘れていて、気づくといつの間にか誕生日を迎えている。そして迎えてからも、今日ポッキーの日かあっていうのと同じくらいに、今日誕生日かあって何度か思っても、特に何の感慨も湧かないまま、いつの間にか日付が変わってしまって、そういや誕生日だったんだよな・・・て、ふと思い出して少し切なくなっている。

こんな感じでわたしの誕生日はいつもいつの間にかやってきて、いつの間にか立ち去って、いつの間にか歳を重ねて、そして慌てて頭の中にある自分の年齢を一つアップデートして、、、誕生日ってただそれだけのための日だ。

別にそれでも全然構わない。だけど先日甥っ子の誕生日を家族でお祝いしたとき、甥っ子がとんでもなく嬉しそうにしている姿を見て、ちょっとセンチメンタルな気分になった。彼が嬉しい理由は正直わからないけど、そういえば自分も昔は誕生日になるとなぜか妙にワクワクしたのを彼を見ていて思い出す。

あの頃の自分にあって、今の自分に欠けてるものって何だろう。たぶん、それってためらいのなさではないかと思う。

歳を重ねることにちょっとでもためらいがあると素直に喜べない。拒否権があったらいいが、かってに向こうからやってきて、強制的に突きつけられるから断れない。税金みたいなもんだと思ったが、税金を嬉々として払う奴はいないだろうから、そういう意味では、死ぬことがもっとも近いことだと思う。

死ぬ直前にもう少し生きていたかったと思うのか、それとも、もう満足で十分生きたと思うかは、人生にどれだけ悔いなく生きたかで決まるだろう。それならそれで、今どれだけためらいながら歳を重ねていても、とりあえず死ぬまでにいい人生だったなって思えたら、わたしの勝ちということだ。人は結局、死ぬまで生きるだけである。その過程に紆余曲折あっても、終わりよければ全てよし。

とりあえずやれるだけのことをやって、過度に期待せず生きていきたい。

それを最終目標に、また来年、ゴミの日みたいに誕生日を迎えてやろうと思うと、こんな誕生日も「ま、いっか」と気楽に受け止められるのだった。