どうもリョウスケです
旅86日目
2022年8月28日月曜日
天気 はれ
大分[竹田市]
瀧廉太郎は意外と若い。ーー23歳。
現代人がさあこれから社会人として頑張っていこうか、という年齢で実は病気で亡くなっている。ということは、
誰もが耳にしたことのあるあの名曲たちは、それよりもっと以前に作られていたということである。
なんて早熟な人生だろう。
23歳なんて、まだ人生これからっしょ! と余裕をかまして呑気に大学最後の年を謳歌していた年齢である。
そこに至るまでの無味乾燥な人生について想いを巡らすと、劣等感で胸焼けを起こしそうだった。
12歳の少年期に父の仕事の都合で竹田に移住。近くの荒廃した岡城が遊び場だった彼は、後にそのお城の印象を歌にし名曲「荒城の月」を作った。
たったの2年間しか竹田にはいなかったというが、竹田での生活は彼のその後の人生に大きな影響を与え、音楽家を志すきっかけを作った時期だとも言われている。
そんな彼の愛した竹田市内をゆっくりと歩いてみることにした。
ーー岡城に訪れた。
山の上に築かれた岡城はその頂に大きな石垣が聳え立ち、遠くからでもその全貌を見渡すことができる城跡だった。
石垣の形状だけで、どこに門があって、どこに曲輪があったのか。
素人のわたしでさえなんとなく察することができる城郭は、現存する建物なんか存在しなくても充分見応えに溢れていて楽しい。
とにかく石垣だった。石垣の存在感がお城の魅力を存分に放っていた。
瀧廉太郎の荒城の月は、建物が失われ荒廃した岡城を嘆いて歌った曲である。
あまり聞き馴染みがなかったので、試しに動画サイトで音を流して聴いてみた。するとまさかあんなにも悲しさを表現した曲だったなんて、、、
メロディーも歌詞も、すべてが切ない。
目の前に広がる岡城は、
とても瀧廉太郎が悲哀を感じたほどの廃れた雰囲気には感じなかった。
石垣の壮麗さや堅固さは当時の面影を現在もしっかりと我々に伝えてくれている。でもそれは、観光地として多くの大人たちが努力した賜物で、瀧廉太郎の見た景色とは大きく違うのかもしれない。
瀧廉太郎の銅像も立っている。
23歳と聞くと、、、。
若い、若すぎるよ。
成功するのも早ければ
死ぬのも早すぎる
もし彼がもうあと数年長く生きれていれば
どれほど多くの名曲が教科書を埋め尽くしていただろうか。
想像しただけで少し残念な気持ちになる。
まだ、成功していないわたしだけど
生きてる限りはまだ可能性は残されているのだ。
早く死んでも成功した彼と、
まだ生きてることで1ミリぐらいは可能性があるわたしと、
現段階ではまだ勝負の行方はわからない。
誰と何を勝負しているのだと言われたら、
わたしにもよくわからないけれど。
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車で走ると荒城の月のメロディーに聞こえる道路。自転車ではどうだろうとドキドキしながら走ったけどダメだった。
大手門跡ーー加藤清正だの、藤堂高虎だの、築城名人として知られるビッグネームの助言によってこの位置に門が建てられたという。山の形状や太陽の方角などからいかに攻めにくいお城を造るか。ただ堅固な石垣を築けばいいのではないところが面白い!!
休憩所に置かれた誰でも自由に弾けるピアノ。瀧廉太郎が聴いてるかもしれません、、、て、プレッシャーすぎない?
空井戸ーー当時から水のない井戸だったそうで、緊急時の逃げ道だったとも、隠し財宝があったとも言われている。
ピアノ型のオブジェ
と、メトロノームーー随分と瀧廉太郎に寄った街である。
童謡「犬のおまわりさん」を作った人の邸宅。竹田市出身らしい。
瀧廉太郎トンネルーー通ると彼の作った曲が順番に流れ出す。
キリシタン洞窟礼拝堂ーー竹田は隠れキリシタンがいた地でもある。
武家屋敷通り
竹田の有名人、田能村竹田の住居
わずか二畳の部屋で絵を描いていたそうである。窓からの景色もよくて、こんな部屋に少し憧れる自分がいる。
瀧廉太郎が住んでいた家ーー竹田市は街の雰囲気もすごく良くて、観光地もいっぱいあるから歩いて巡るのも楽しい。
尺八を吹く廉太郎さん。小さい頃からいろんな楽器に触れていたらしい。
大分はかぼす。