どうもリョウスケです
タイトル「ジキルとハイド」
どんな善人も悪人も、心には必ず二面性がある。
純度100%の善人などいなければ、
その逆も然りで、
要はどちらに多く偏っているか。
それが人間の個性と呼ばれているものである。
ふと自分の胸に手を当てて考えてみた。
私は果たして純度何%の善人だろう
悪の心と、
どちらの比重が大きいか。
犯罪に手を染めたいと考えたことは一度もない。
だったら私は善人だ、
と胸を張って答えられるほど
心とはそんな単純な構造にはできていない。
新聞に載る痛いけな事件を目撃する度、
その被害者に対して鎮痛な思いを抱き、
同時に、加害者には激しい憤りを覚えずにはいられない。
ところが、いざ街で散歩していて
明らかに困っているおばあさんが目の前にいたとして、
損得勘定を抜きにしてまで
助けに行けるほど私は善人ではない。
例えば街で財布を拾ったとして、
それを問答無用でネコババするほど悪人ではない。
ところが道で裸のお金を拾ったとして、
それを交番にわざわざ届けに行くほど善人でもない。
誰にでもある二面性を私は持ち合わせている。
小説「ジキルとハイド」はその行き過ぎた感情をある一つの方法で押さえ込もうとした、
一人の天才科学者の話である。
ジキルという名の
誰からも尊敬され、その人柄からも
多くの人に慕われる科学者の悩みは心に巣食う
悪の心だった。
日に日に肥大化する悪の心を
なんとかしようと考えたジキルは、
ある日、自分の体や心を一時的に悪に変貌させる
薬を発明する。
一時的に純度100%の悪の心で過ごすことで、
本当の自分に戻ったとき
悪を自分の心から排除することに成功するが、、、
この物語は最終的に悲劇が待っている。
概ねファンタジーでありながら
誰にでも存在する二面性の心の内をコントールする
難しさを物語は示している。
犯罪は悪だーーー。
そんなことは誰でも知っている
それでも犯罪はこの世界から絶対に
消えることはないだろう。
誰もが人から尊敬されたいと思っているし
できれば善良で平和な優しい世界を人は求めている。
それでも世界から犯罪が無くならないのは、
動物的な闘争本能を遺伝子レベルで人は求めていて
それを倫理的な思考で抑制しているに過ぎないからだ。
人殺しは悪だと定めながら
その実、場合によっては殺しを国が正当化したのが
戦争でもある。
人はそもそも弱い生き物だ
国も人間も悪には逆らえない。
抗うのではなく、
共存できる解決策を模索することこそ
我々に必要とされるべき倫理なのではないだろうか。
ジキル博士には友人がいた。
彼を心配し、常に味方であろうとする彼らに
博士が素直に心を開いていたら、、、。
そんな単純に解決できたら
この世界に悪が蔓延るはずがないのだ。