チャリ旅日記

旅のことや日常のことを気ままに綴るよ

現代美術とはなにか

 


どうもリョウスケです

 

 

 

旅198日目

石川(金沢)

天気  雨

 

 

 

2年ほど前に友人と旅行に来て以来、

金沢にくるのは2度目である。

 


前回行った場所は、

今回もう一度訪れようとは考えてはいない。

この旅のあいだに行っておきたい気持ちもあるが

何か嘘っぽい演出じみた感想に

なってしまわないとも限らないからである。

 


行ったのは二つ。

金沢城と、

21世紀美術館を少し

 


金沢の観光地はとても歩きやすい作りになっていて

大概のものが一箇所に寄り集まっており

歩いて回ることができる。

 


世界的にも有名な庭園である兼六園や、

金沢城21世紀美術館、近江町市場や武家屋敷

ひがし茶屋町も少し歩く必要があるが

1キロと離れてはいない場所にある。

 


正直これがとてもありがたかった

北陸では大気の状態が非常に不安定であり

朝から一日中、

いつ雨が降ってもおかしくない天気が夜まで続いていた。

これで自転車が必要とあれば

屋根のある場所を探して駐輪する必要と

雨具を着たり脱いだりを繰り返さねきゃいけない必要が生じ

それだけで大変である。

 


歩いて回れるようなら自転車を近くの駐輪場に止めた状態で

小さな傘を一つ持ち歩けば済む

手間が一気に減るからありがたいというわけだ。

 

 

 

100名城金沢城

 

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まず目に飛び込んできたのは横に長く伸びた建物である。二つの櫓を長い廊下で繋いでいて、その作りがとても立派だ。

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豊臣秀吉の時代に前田利家が治めていた城として有名な金沢城。北陸に入ってから前田家の話をよく耳にする。石川と富山の城は前田家との関係が深いらしく、ここ金沢城も、前田利家が収め始めてから大きく拡大したとされている。

 

金沢城は石垣の博物館とも言われていて、本来ならば一つのお城に作られる石垣の形は統一されていることが多いそうだが、このお城には数種類の石垣の組み方がされていて、用途によって変えていることから、石垣の博物館と呼ばれているのだとか。

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右と左で石垣の組み方が異なる。

 

相変わらず石垣の魅力に気づくのは難しい。。幼い頃にこれの何が旨いのかと思っていたぬか漬けが、大人になって旨いと感じる現象に似ているのか、ある日急に魅力に気付く可能性はある。これでも徐々にではあるが、なんとなく良いなと思い始めている自分がどこかにいて、あともう少しで大人になれるような気はしなくもないが、けれどやっぱりまだまだ派手な建築物に目がいってしまうのは致し方なく、ああ早く大人になりたい。。と枕を濡らした幼き頃の思い出と少しリンクする私がここにいた。

 

 

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21世紀美術館に行ったと言うと

少し嘘が混じる。

敷地にも入ったし、建物の中にも入ったし、作品もいくつか見た

でもそれは「無料」と書かれた自由見学スペースであり、

本来美術館側が客に見て欲しいと望む有料スペースにはどうしても

足を伸ばすことができなかった、、

なぜなら、、高い!と感じてしまったからだ。

 


入館料が高い!

有料スペースは二つのコンセプトに分かれていて

それぞれに違うチケットが必要とされている。

一つだけでも千円ちょい、二つ共通券で二千円、、

わかっている。美術館というならそれぐらいは妥当な金額だ

高くもない

 


これは私個人の価値観の問題である。

現代美術とは何かと考えたとき

私は自己満足を具現化した姿だと解釈している。

作品に対して自分なりの思いや考えを具現化させた物であり

そこに他者の感情は一切介入してはいない

ゼロからヒャクまで全てが自分でできており

その作品には本人にしか理解の及ばない果てしない意味が

隠されているのかもしれないが

それを他人が見て理解することは難しいし

理解する必要性も

実のところないようにも感じる。

 


勘違いしてほしくないのは、

私は現代美術を否定しているわけではないし

自己満足の作品をバカにしているわけではない。

そもそもこのブログだって

私なりの作品であり、拙い美術であり、

そして自己満足の具現化であると考えている。

誰かに共感されたり褒められたりすれば、それはそれで嬉しくもあるが

されなかったとしても

自分さえ楽しければそれでいいと思っている。

ブログでお金を稼ぐつもりがないのもそこからきていて

行き過ぎた自己満足を晒しているだけの

つまり裸で街中を笑顔で歩いているようなもので

そこに他人への気遣いや感情などほとんど存在してはいない。

存在したらつまらない

存在しないからこそ楽しんで今日も更新している。

 


現代美術とは、

つまりそういうものではないか。

己の感情や信念が作り出す行き過ぎた美術であり

なんとなく理解できるような気がしても

結局本当の意味は製作者本人にしかわからない。

それをわかったような気をしながら

見て回るのもそれはそれで楽しそうだが、

他人の自己満足に

結局のところ2000円は払えなかった私である。。

 

 

 

                                   つづく

リョウスケ

 

 

 

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現代美術たち

最後の屋上にいる空を図る人の像は

なかなか好きかもしれない。

意味はわからない

例によってわかる必要もない

でも発想が面白いと感じる

現代美術を楽しむっていうのは、

つまり意味を理解したり共感したりするのではなく

製作者の発想にユーモアを求めることなのかもしれない。

「なにこれ? 変なの  」

と言って笑いながら通り過ぎる

そこに見る側の価値が生まれるのだろう。


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勢揃いした!!