どうもリョウスケです
旅166日目
長野(上田→小諸)
天気 くもり 雨 土砂降り
真田所縁の城を歩く。。
100名城 上田城
真田家の持つ運命はここから始まったようなものだ。
長々と説明するならば、、
上田城は幸村の父、真田昌幸が家康の命により築城を開始されたお城である。ところが城が完成する直前、徳川との間で揉めた真田家は上杉家へと鞍替えしており、完成した段階では上杉家の城として築城された。歴史の資料を見ていくと、いかに真田家が一族単位で生き残ろうとしていたかが良くわかる。時には徳川に、時には織田に、時には豊臣に、使える主人を変えながら戦国の世を渡り歩き、最終的に関ヶ原の合戦で東軍と西軍に一族を分けることで、最後まで名前を後世に残していった。。
戦においても抜群の力を発揮していて、これまでに2度ほど徳川軍に攻められた上田城は、圧倒的な数の差を物ともせずに勝利を収めている。奇しくも西軍の敗北によって上田城は奪われて破壊されてしまい、昌幸と幸村はその後兄の信之の嘆願により命こそ救われるが、九度山へと配流に遭い、昌幸は不幸にも九度山で最期の時を迎える。それから数年後、幸村は豊臣方の命によって再び戦場へ、「真田丸」と呼ばれる徳川軍を迎え撃つために作られた出城を取り仕切り、大坂冬の陣にて徳川軍を圧倒した。
真田丸に恐れを抱いた徳川は、その後和睦という形を取るも、それをいいように利用し真田丸を解体させ、堀を埋めさせた後、いちゃもんをつけて一方的に和睦を解消。大阪夏の陣を引き起こし、豊臣を打ち滅ぼした。その戦において、真田幸村も無念にも討死したそうである。。実はまだ生きていたのではないかと言う話しを聞いたことがあるが、史実ではないので妄想か願望か定かではない。
。。。。。
一族のためとはいえ、家族で敵対しなきゃいけない幸村と信之の気持ちは複雑だったろうと思う。関ヶ原の合戦後、上田城を任された信之は本丸や櫓を復元しようとはしなかったそうである。それも、徳川に対する忠義を示すためだったのではないかと言われている。いまの城の形や櫓などは、信之が松代に移った後に上田城の城主となった仙石氏によるものだそうで、真田家の遺構はほとんど残っておらず、どこに何が建てられていたか詳しいことはあまりわかっていない。現在櫓が立っている位置に金色の鯱鉾の乗った天守閣があったのではないかとされていて、それは出土した瓦の跡から推測されている。
。。。。。
そろそろ疲れてきた。
いったい私はなんでこんな細かく真田家について
たらたらと書いているのか
正直自分でもよくわからなくなってきた。
とりあえずただ一つ言えることは
これ大河ドラマにしたらすごく面白いんじゃないか、、
と思ったが、
すでに何年か前にやっていたような気がするから
やっぱり史実ほど面白いものって
実はないのかもしれない。
明日行く予定の小諸城は、その上田城合戦の際に徳川軍が本拠地にしていた城ということで、これまた真田との関係性があるそうで
その二度目の合戦において、徳川秀忠率いる徳川軍を迎え撃った真田軍はーーーー
まだまだ書きたいことはたくさんあるが
そろそろ終わりにしようと思う。
ああ疲れた、、
つづく
リョウスケ
築城時から現存する石垣部分
櫓
中にも入れる
幸村の兜
私の中では幸村はこのイメージ
あ、いた!!